ABOUT会社概要

MESSAGE代表挨拶

当社は新築専門の住宅会社ではありません。小さな修理を含めると、年間80件程のリフォーム工事も行っています。ハウスメーカーも含めて、他社が新築した住宅のリフォームも行っていますから、新築専門の住宅会社よりも多様な住まいと、新築後の暮らしを見ており、実際にどのような家が快適で、長持ちしているのかを知っています。

これからの日本は、少子高齢化が進み、世帯数と世帯人員が急減します。家余りにも拍車が掛るので、今までのように、「住みたい家を、簡単に手に入れる大量消費の時代」ではありません。これからは、「長く住める良質でコンパクトな家を、少し苦労してでも手に入れる時代」です。地球温暖化を防いで快適に暮らすには、省エネで環境負荷が少なく、健康な暮らしができるエコハウスにする必要があります。

具体的には、なるべくコンパクトな高断熱住宅にして、風雪に耐えて生き残った良質な仕上げ材を使い、普遍的な内外観とする。このような家を手に入れるのは少し苦労しますが、健康で快適に暮らせる上に省エネで、メンテナンスしながら長く使えるので、長期的に考えるとお得です。

逆に、断熱性能と気密性能の低い、既製品の仕上げ建材を多用した量産型の住宅は、初期コストは安いので手に入れやすいものの、快適性が低く光熱費が掛かり、経年すると賃貸アパートのようにチープな見た目になる上に、既製品の宿命で廃盤になってしまうと部品交換が出来ないことが多いのです。これらは、長く使うのが難しい大量消費時代の住宅です。今後は、このような住宅を造るべきではありません。

当社では、快適に長く省コストで暮らせる住宅を丁寧に造っていきます。家づくりについて学び続けて、進化することを辞めません。今後ともご支援のほど、よろしくお願い致します。

代表者 吉田武志物語

代表 吉田武志の生い立ちと、どんな住宅を造ってきたか?を物語で説明します。

学生時代

私は、昭和42年9月21日宇都宮市三番町生まれ。萩の丘幼稚園→簗瀬小学校→旭中学校→宇都宮北高校→1年間浪人→東洋大学経営学部→中央工学校(建築専門学校)→高級注文住宅会社5年間勤務→1998年宇都宮に戻り家業の工務店を継いで現在に至ります。

人より学生生活は長いのですが、勉強は嫌いで、特に理数系が苦手でした。数式を見ると吐き気がするようになり(笑)、高校1年の微分・積分で完全に授業に付いていけなくなりました。勉強しようとしても、嫌いなものはやる気が起こらない。そんな悪循環で、数学と物理のテストは0~20点を連発するようになりました。

高校は宇都宮北高校。田んぼの真ん中にポツンとある学校で、家から自転車で30分。街中で育った私は、その寂しい環境になじめず、都落ちのような気分になったのですが、めげずに新幹線の高架下の田んぼ道を、雨の日も雪の日も通いました。

高校2年時、文系か理系を選択します。どちらかというと、文系科目のほうが得意でしたが、諦め悪く理系に進んでしまいました。小さな工務店とはいえ、私で5代目。夏休みなどに家業の手伝いをしていたこともあり、ぼんやり家の仕事を継ごうと考えていました。中学時代、美術の授業で彫刻や板金細工など、一人で物を作る時間が好きだったことも、住宅業界に入ったキッカケかもしれません。

毎年理系クラスでは、夏休みに成績が悪い連中ばかりを集めた数学の補習授業がありました。担当の教師も、貴重な夏休みだけど、バカなお前らの為にわざわざ来てやっているという雰囲気で、苦痛でした。そんな状態が続いて、あっという間に高校3年。全く受験勉強していないにも関わらず、偏差値の良い大学に入って、密かに人生の逆転をしようと考えていました。案の定、三流大学の工学部を5つも受けましたが、全て落ちて浪人決定。

当時は、偏差値の良い大学に行くこと=人生の成功者と考えていました。確かに今でも公務員やサラリーマンはそういう面がありますが、私のような自営業者は関係ありません。

クラスメイトに「東京の予備校で浪人しよう」と誘われて、親に頼み込んでお金を出してもらい、高円寺の中央ゼミナールという予備校に入りました。地元に居ると、また遊んでしまう予感がしたからです。どうしても大学に行きたかった私は、苦手な理系はあきらめて、文系に転向して浪人生活を始めました。

浪人時代は予備校で紹介された荻窪の下宿に住みました。1階が大家さんの住まいで、2階をそれぞれ3畳に簡易間仕切りした部屋で、予備校生が10名程暮らしていました。部屋というよりネグラです。

一番遅れて下宿に到着したので、北向きで1日中暗い、共同トイレと共同洗面所の隣の部屋しか残っていませんでした。自分の部屋とトイレの境が薄いベニア1枚で、壁の隙間からトイレの中が見えてしまうという、今考えると、とんでもない造りの部屋でした。トイレとの隙間をガムテープで塞いで生活していましたが、トイレの排便・排尿の音が聞こえるし、洗面所のうがいの音も聞こえる状態。そんな生活音に勉強したストレスが重なり、受験勉強が佳境に入る7月くらいにはノイローゼ気味になりました。1箇所のトイレと洗面所を10人が使うと、使用頻度がとても高くなりうるさくなると学習しました(笑)。大家さんに、不快な音の解決を依頼しましたが、何もしてくれず、勉強できなくてあせりました。

困りに困った私は、実家に電話して、親父と大工さんと内装屋さんに来てもらい、トイレとの間仕切り壁を付加して、断熱材を入れて防音壁にしてもらいました。工事は1日。予備校から帰ると綺麗に完成しており、不快な音は劇的に聞こえなくなり、驚きました。初めて、実家が工務店で良かったと思うと同時に、親父を尊敬した瞬間でもありました。今考えると、壁の造り方が酷すぎただけなのですが、リフォームをしたことで快適になり、部屋で勉強ができるようになりました。建築で、不快な状態を短時間で快適に出来る。後から考えると、これが工務店を継いだ原因の1つかもしれません。8月くらいから、本格的に勉強を始めて、東洋大学経営学部に合格しました。

大学時代の思い出はアルバイト。警備員・ウェイター・建築現場の資材運搬・あやしいテレフォンアポインターなどいろいろやりました。当時、広告代理店を舞台にしたドラマが流行っており、影響を受けて広告代理店でアルバイトすることにしました。その会社が、実家の工務店と関連のある建築専門の広告代理店だったということも、バイトに選んだ理由でした。本郷にあった建築専門の広告代理店で月~金までの5日間、9時から5時までフルタイムでバイトしました。仕事は建築雑誌に掲載する広告の原稿運び、倉庫整理、建築コンペ(設計競技)のお手伝いなど。良い雰囲気の会社で気に入り、バイトが本業のようになってしまい、ますます大学に行かなくなりました。

バイト中、暇な時間があると、事務所の壁一面に並んだ建築雑誌を眺めていました。建築専門誌は、一般的ではない上に値段が高いので、あまり普通の書店には並びません。そこには国内で流通するほとんどの建築雑誌が揃っていました。今考えると、多くの建築雑誌が眺められたことは貴重な体験でした。

「新建築・住宅特集」という、住宅業界で一番有名な雑誌を眺めているうちに、魅力的な住宅の施工者として何度も記載されている会社を見付けました。その会社は、有名建築家の設計した住宅を数多く手掛けており、自社設計のレベルも高かったのです。雑誌を眺めているうちに、自分もこんな家を造ってみたいと思うようになりました。コンペの手伝いをするうちに、同年代の大学生や社会人が、熱中して物づくりをしようとする姿勢に、刺激を受けたのだと思います。

家業の工務店を継ごうと思っていましたが、理数系が苦手な為、建築系大学に行くことを断念。住宅業界に進むのを諦めていましたが、それが心に引っ掛かっており、偶然アルバイトで入った会社での体験が、自分の働く道を決めるきっかけになりました。

度々住宅特集に登場する魅力的な住宅を施工していた会社。魅力を感じたのは、精度高い丁寧な造りです。高級注文住宅を造っている会社ですから、材料も良かったのですが、建築写真からも、他社とは違う質の高さが分かりました。広告代理店の社内でも、「高級注文住宅ならここ」という会社で何度も耳にしていましたし、掲載回数も多かったので、記憶に残ったのだと思います。

当時、有名建築家の設計した住宅と本格的な和風建築の両方を手掛けられる住宅会社は、東京で3社。その中の1社でした。その会社にどうしても入りたくなり、思い切って電話をしてみました。返事は、「事務系社員なら文系大学でも入社試験を受けられるが、技術系は、建築の専門教育を受けた学生のみ」とのことで、入社試験を受けられませんでした。バイト先の営業部長にも裏から手を廻してもらい、技術系社員として入社することを試みましたが、ダメでした。そうなると、どうしても、その会社に入りたくなり、大学卒業後2年間、建築の専門学校に通うことにしました。

大学の同級生が、似合わないリクルートスーツを着て就職活動していた時も、フルタイムでバイトを続けて、王子にある中央工学校という建築の専門学校に入りました。卒業生に、田中角栄も名を連ねる専門学校に通った2年間は、課題がたくさん出たので、大学の時より勉強しました。

ただし、中央工学校は、おかしなところが厳しい学校でした。卒業課題の発表日と、意中の会社の入社試験日が運悪く重なり、発表会に出ないと卒業させないと言われてしまい、何と!2年間も待った入社試験が受けられませんでした。今考えると、クラスの中で私だけ年上で生意気だったので、担任教師に意地悪されたのかもしれません。入社試験を受けられず、この2年間は何だったのかと、落ち込みました。

入社試験は終わってしまいましたが、ダメもとで電話せずに直接会社に伺って事情を話し、就職試験を受けさせてくださいと御願いしました。

その日は帰らされましたが、欠員が出て、追加で入社試験が受けられることになり、めでたく希望の会社に入社しました。諦めないことは大切です。

サラリーマン時代(高級注文住宅を手がける工務店で働きました)

2年間専門学校に通い建築の勉強をして、念願の注文住宅会社に現場監督として入社しました。仕事の内容は、設計図書(設計者の描いた図面)を元に予算管理しながら、施工図(職人が作業する為の図面)を描いて、職人に指示を出して工程ごとに確認しながら、安全に予定工期内に、家が出来ていくまでを現場で管理する仕事です。

就職したのは1993年。現場監督は職人に指示を出して作業をしてもらうのが仕事なので、自分は作業をする必要はないのですが、最初は仕事の流れと内容が分からず、職人と一緒になって埃と汗にまみれて作業しました。入社して最初の現場は、忘れもしないその年の12月20日に終わりました。家が完成したのが嬉しかった。 その後、仕事にもだんだんと慣れてきて、現場作業でなく、職人の手配や施工図を描くことも多くなってきました。現場は、新宿・目黒・恵比寿という東京のど真ん中、人通りも多かったので、安全管理にも気を使いました。

その会社が、一般的な住宅会社と違っていた点は4つ。有名建築家の設計した住宅を施工していたこと。施主は富裕層で、請負金額も桁が違っていたこと。当時は当たり前だと思っていましたが、オリジナルで家具や建具等の部材を造り、空間と調和する家を造っていたこと。構造は木造ではなく、鉄筋コンクリート造の建物が多かったこと。上司や先輩は、建築家の意図を形にするために熱心に仕事に取り組む、技術者の鏡のような方ばかりでした。

受注方法は、お客さんが意中の建築家に依頼して、建築家が選んだ施工会社として、仕事に参加することが多かったと思います。契約はお客さんとの直接契約ですが、分かりやすく言うと、建築家の下請け的立場です。私が入社した頃は、特命で工事を請け負うことが多かったのですが、少し時間が経つとバブル崩壊の影響が出始めて、建築家が複数の施工会社に見積もりを依頼して、値段の安い会社に工事を依頼する相見積もりが多くなっていきました。特命工事とは、発注者が意中の1社のみを工事業者として指名することですが、相見積もりは基本的に安さの勝負になります。

どんな業種でも同じですが、発注者であるお客さんに一番近い立場で、直接仕事を取った人や会社が一番力を持ちます。世間の評価は、「建築家が設計した難しい住宅の工事ができる、施工力の高い会社」でしたが、お客さんが感じている価値の核心部分は、「好きな建築家に設計してもらった家に暮らすこと」でした。

設計施工で受注できないと、自分が良いと思う家は造れないと感じるようになりました。独立するなら、建築家等の第三者から依頼を受けるのではなく、自社に価値をつくり、お客さんに直接アピールして設計施工で仕事を取るしかないと考えていました。

戸建の注文住宅を造りたくて入社しましたが、3年目からはマンションやオフィスビルの担当になりました。戸建住宅を造る場合は、施主の顔が見えますが、マンションやオフィスビルは、個人の顔が見えにくい上に、建物が大きすぎて自分のやりたいスケールの仕事ではありませんでした。私は、もっと住まい手と近い立場で、戸建住宅がやりたかった。ちょうど、父親が胃潰瘍を繰り返して体調を悪くしていたこともあり、実家の工務店を継ぐことを決めて会社を辞めました。

家業を継いでから現在まで

会社を辞めた後1年弱、昼間アルバイトをしながら勉強をして一級建築士の資格を取得。1998年、30歳の時に実家に戻り、家業を継ぎました。嫁とはアルバイト先の建築専門の広告代理店で知り合い、私が就職してから付き合いが始まり、実家に戻って籍を入れました。

実家に戻って一番驚いたのは、仕事が無かったこと。とにかく顧客を廻って「家業を継ぎました」と挨拶に行こうとしました。しかし顧客名簿が無い。急いで分かっているお宅のみ名簿を作り、社長である父と一緒に顧客訪問をしました。すると大手ハウスメーカーで既に建替えていたり、他社で建替えを検討したりしていました。

挨拶廻りの後は、確実に建替えるお宅が多い区画整理地域に、チラシを作り飛び込み営業をしました。120件くらいのお宅を、3度ほど廻りましたが、全く相手にしてもらえませんでした。サラリーマン時代は、毎月確実に給料は振り込まれます。しかし、自営業はハンディなしの完全な歩合制。仕事が無くなり倒産しても、それは自分の責任。

飛び込み営業をした時に感じたのは、相手はいきなり営業をされても迷惑で、特に住宅は値段が高いのでハードルも高く、知らない会社に訪問されても、ほとんど相手にしてもらえないということ。当時はネット時代の前なので訪問営業をしましたが、お客さんのほうから訪ねて来てもらえないと、ダメだと痛感しました。また、会社独自の特徴を出さないと話が進まず、検討さえしてもらえないということも分かりました。

特徴と言っても、奇抜な流行り廃りのあるものでなく、住む人にとって有益で、何より私自身が納得できる本物でなければなりません。

そこで、建材メーカー・全国の同業者等から資料を取り寄せて、どういう家を造っていくかという検討をしました。取り寄せた資料の多くに「高断熱・高気密」という文字がありました。ちょうど実家に戻った1998年は、前年の「地球温暖化防止・京都会議」の影響もあり、日本の住宅を省エネで環境負荷が少ない高断熱・高気密住宅にしようという転換点でした。

それまでの日本の住宅は、薄い断熱材しか入っておらず、気密性を高めるという概念もなく、夏暑く冬寒いというのが、当たり前でした。断熱性と気密性を高めた上で、日射取得及び日射遮蔽することにより、夏涼しく、冬暖かい住宅にしたものが、「高断熱・高気密」住宅です。断熱と気密を良くして日射を制御できれば、快適になり健康に過ごせる上に、ランニングコストも少なくなります。

私は高断熱住宅を造ることに決めて、多くの資料を読み、断熱材メーカーが組織していた3つの工務店グループをピックアップして、実際に体感しに行きました。その中から北海道に本社がある「FPの家」という工務店グループの造っている工法が、当時は一番断熱性能が良く、構造もシンプルで合理的だと判断して入会しました。

FPグループに入会してすぐに、近所の方から依頼を受けました。FPの家を建てて、一番驚いたのは私でした。FPの家のQ値は1.6くらいでしたが、とにかく今まで体感したどの家よりも、冬暖かく、夏涼しく快適だったのです。東京でのサラリーマン時代に造っていた家は鉄筋コンクリート造で、住宅価格も日本のトップレベルでしたが、冬寒く夏は暑かったのでエアコンをガンガンに掛けないと効きませんでした。当時は、どんな高級住宅でさえ意匠と仕上げ材料優先で、断熱性能や気密性能を良くしようという概念がありませんでした。

高断熱住宅の一番の利点は、冬の寒さと夏の暑さが無くなるので身体が楽になること。断熱性能が高くなると、間取りの自由度も増します。例えば普通の家は、大きな吹抜けを造ると、冬に寒くなってしまいますが、逆に高断熱住宅は、吹抜けを設けたり間仕切りを減らして、家全体をワンルームに近くするほうが室内温度を均一にしやすくなります。また断熱性の低い住宅の場合、寒い北側にリビングを配置することは出来ませんが、室内のどこでも暖かい高断熱住宅ならそれも可能になります。さらに家中どこでも暖かいと、小さな家でも隅々まで広く使えるので、少子高齢化が進んで大きな家が必要なくなる今後の日本にも合っています。その快適性が少ないランニングコストで実現出来ます。

この断熱工法を手に入れた私は、初めて会った方にも自信を持って話しができるようになり、順調にお客様をつくることが出来ました。加盟して3年目には、FPグループ栃木支部の中で一番施工棟数が多くなりました。しかし仕事は順調でしたが、少しずつ違和感を覚え始めました。

高断熱を特徴にした住宅を造っていたので、現場見学会を行うと、とにかく断熱性能さえ良ければいいという、施主予備軍が訪れるようになりました。最初は私も得意になって、高断熱住宅について話をしていましたが、実は断熱性能だけ良くても、長く快適に住める家にはなりません。メンテナンスしながら、長く快適に過ごせる住宅にするには、高断熱・高気密に加えて、風雪に耐えて長く生き残った「仕上げ材」を使い、普遍的な内外観にする必要があります。特に風雨と紫外線に晒され続ける外装仕上げ材は、定期的にメンテナンスを行う必要があるので、持続性が大切なのです。

「断熱性能を高めること」は住宅を造る上で最も重要ですが、それだけでは片手落ちで、長く使える外装材はもちろん、自然素材である無垢フローリングや廃盤にならずに修理の効く、造作家具や造作建具等のオリジナルの仕上げ材を使って初めて、メンテナンスしながら長く使える家になります。

戦後の家不足の時代に生まれた「新建材及び既製品の建材」は、表皮に塩ビの木目シートが貼ってある工業製品が多く、それは剥がれたりして見るに堪えない経年変化をする上に、シート建材なので削ったりして微調整ができません。また、既製品は廃盤になると部品が無くなり、故障しても交換出来ないので、長く使うのが難しいのです。

FPグループに所属すると、「FPパネル」という断熱材以外にも、サッシュ・玄関ドアや換気システムもグループの指定部材を使わなければならなかった為、仕上げ材にまで予算を廻すことが出来ず、結果として新建材や既製品の建材を使うことが多いというのが現実でした。

お客さんに、仕上げ材を含めた意匠面の提案が出来ないことがストレスになっていきました。このままでは、性能と意匠のバランスの取れた、自分の理想とする住まいは造れないと感じるようになりました。

FPグループは全国組織のため、会合などで他県の経営者仲間と情報交換をします。実際に造っている家を見学させて頂く機会もありましたが、どの家も同じように見えることに気が付きました。使っている仕上げ材料が同じだと同じ印象の家に見えるのです。他の工務店も、仕上げ材にまで予算を廻すことが出来ず、結果として同じような家になっていました。

これでは、グループ内で競合になると思いました。事実、栃木県内で競合が起こるようになりました。断熱性能が同じで、同じような仕上げ材料を使い、内外観が似ているなら、価格競争になります。新建材を使ったまま、価格競争になると、グループごと沈んでしまうと思いました。

私は悩みましたが、断熱性能の高さだけでなく、意匠や仕上げ材の普遍性も大切だと考えた結果、2004年にグループを退会し、「自分の理想とする家」を造ろうと決意します。退会に踏み切れた背景には、ホームページやブログで、自社の紹介を低価格で出来るようになったこともありました。

FPグループ退会後は、新建材や既製品の建材を使った、画一的な家が嫌いな方々がお客さんになってくれました。断熱材をウレタンパネルから、羊毛断熱材に変えました。仕上げ材は、外壁がシラスそとん壁等のモルタル系外壁材、室内は床を無垢フローリングにして、ドアや家具は造作にしました。どちらもメンテナンスしながら長く使える仕上げ材です。また、なるべくコンパクトな家を提案するようになりました。

その理由は、多くのリフォーム工事を手掛けるうちに、大きな家にお住まいの方が高齢になると、掃除しきれなくなるばかりか、広い家はリフォーム費用も高額になるため、少子高齢化が進む日本では、なるべくコンパクトな家が良いと感じたからです。当社では他社が新築した家のリフォーム工事も行っていますから、その経験が新築にも生かされます。

その後、耐久性の高いガルバリウム鋼板外壁材を採用するにあたり、羊毛断熱材から「高性能グラスウール」に断熱材を変えました。高性能グラスウールは火に強い断熱材なので、シンプルな下地構成でガルバリウム鋼板外壁材を採用できるからです。当初は耳付きグラスウールに気密シートを貼っていましたが、断熱材が綺麗に施工できないので、裸のグラスウールと防湿気密シートの組み合わせに移行し、普遍性のある断熱施工技術を学ぶために高断熱・高気密住宅の技術開発団体である、新住協に入会しました。

新住協の良い点は2つ。断熱材メーカーや建材メーカー等、特定の営利団体から独立した、開かれた民間の技術開発団体なので、特定の断熱材・建材の使用に縛られないこと。フランチャイズのクローズドな断熱工法でなく、誰にでも手に入る高性能グラスウールを基本の断熱材として使い、オープンな工法で造るので、フランチャイズが潰れたりして特殊な断熱材が生産中止になることはなく、普遍性と持続性があることがメリットです。もう1つが、優秀な他社の現場が見られる等、会員工務店と情報共有して、新たな工夫と行動がしやすいことも、時流の早い現代には合っていると思います。特定の断熱工法の場合、規定に縛られ、自社での工夫が出来ないので、時流に合っていません。

建築の仕事を始めてから、ウレタン現場吹付・工場制作のウレタンパネル・羊毛・高性能グラスウールと、主に4種類の断熱材を使いましたが、高性能グラスウールが、火災に強く普遍性があり、コスパも良いので、基本の断熱材としています。

現在は、高性能グラスウールを使った付加断熱のQ1.0住宅と床下エアコンに、風雪に耐えて生き残った良質な仕上げ材を標準仕様にして、なるべくコンパクトな家を造ることを心掛けています。そうすることで冬暖かく夏涼しく、光熱費とリフォーム費用が最小限に抑えられ、長く使える可能性が高くなるからです。

OUTLINE会社概要

会社名
有限会社ヨシダクラフト
所在地
〒320-0814 宇都宮市三番町2-9MAP
電話
028-634-9474
URL
www.yoshidacraft.net
代表取締役
吉田武志
創業
1899年(明治32年)
資本金
3,000,000円
免許
一般建設業の許可:栃木県知事 (般-4) 第2606号
建築士事務所登録: 栃木県知事登録 Aハ第2951号
(有限会社 ヨシダクラフト一級建築士事務所)
所属団体
一般社団法人 新木造住宅技術研究協議会(マスター会員)
住宅保証機構 株式会社
事業内容
高断熱・高気密住宅を中心とした木造注文住宅の設計・施工、リフォーム
定休日
日曜日・祝日
※事前にご連絡頂ければ、定休日も対応致します。
営業時間
8:00~17:00
施工エリア
宇都宮市と隣接する市町村

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