1. 学生時代

2. サラリーマン時代

3. 家業を継ぐ

4. 現在とこれから

5. 略歴・資格・所属等はこちら

学生時代

小さめに載せるAさんご夫婦と

私は、昭和42年9月21日宇都宮市三番町生まれ。萩の丘幼稚園→簗瀬小学校→旭中学校→宇都宮北高校→浪人→東洋大学経営学部→中央工学校(建築専門学校)→東京の住宅系工務店5年間勤務→1998年、実家に戻り家業の工務店を継いでいます。人より学生生活は長いのですが、勉強は嫌いでした。特に理数系が苦手でしたね。

数式を見ると吐き気がするようになり(笑)、高校1年の微分・積分で完全に授業に付いていけなくなりました。勉強しようとしても、嫌いなものは、やる気が起こらない。そんな悪循環で数学と物理のテストは、0~20点を連発するようになりました。

高校は、宇都宮北高校。男女共学が魅力で入学しましたが、女にもてなかった。新設校で4期生でした。田んぼの真ん中にポツンとある学校で、家から自転車で30分。街中で育った私は、その寂しい環境になじめず、島流しか都落ちのような気分になったのですが、めげずに新幹線の高架下を、雨の日も雪の日も通いました。
高校2年の時に、文系か理系かを自分で選択し、クラスが分かれます。どちらかというと、国語と社会のほうが得意でしたが、あきらめが悪く理系に進んでしまいました。高校の夏休み、春休みなどに家業を手伝っていたこともあり、家を継ぐものだと思い込んでいました。中学校の時は、技術家庭科と美術など一人で物を作る時間が密かに好きでした。彫刻や板金細工などです。今考えると、やはり物作りが好きなんですね。小さな工務店とはいえ、私で5代目。工務店を継ぐには、工学部の建築学科に行くしかないと思っていましたが、全く勉強はしませんでした。学校は、まあまあ楽しかった。文化祭などは結構夢中にやっていました。授業のほうは数学と物理の時間が増えて、ますます分からなくなりました。外国語の授業を受けているようで、理解不能。先生は呪文でも唱えているようでした。授業中は、眠くも無いのに寝るしかない。成績は、125人中、123番目という好位置をマークしていました。毎年、夏休みに成績の悪い連中ばかり集めた補習授業があって行くのがイヤでした。担当の先生も嫌々来ているのが分かるんですね。夏休みだけど、バカなお前らの為にわざわざ来てやってると。ホントに屈辱的で、当時は仕返ししてやりたかったですね。(笑)そうこうしているうちに、高校3年。大学で、人生の逆転をしようと密かに考えていましたが・・・。大学受験も、三流大学の工学部を5つも受けましたが、全て落ちて浪人決定。全く受験勉強していないのですから当然です。東京で遊びたかったので、どうしても大学に行きたかった私は、苦手な理系はあきらめて、文系に転向しました。当時は、偏差値の良い大学に行くこと=人生の成功者みたいに考えていました。確かに、今でも公務員やサラリーマンはそういう面はありますが、私のような自営業系は殆ど関係ありません。

クラスメイトの菊地くんに「東京の予備校で浪人しようぜ」と誘われて、親に頼み込んでお金を出してもらい、高円寺の中央ゼミナールという予備校に入りました。地元に居ると、また遊んでしまい、ダメになりそうな予感がしたのです。

住んだのは、予備校で紹介された下宿。荻窪にありました。1階が大家さんの住まいで、2階を各3畳に簡単に間仕切りした部屋。予備校生が10名程暮らしていました。部屋というよりネグラです。

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一番遅れて下宿に到着した私は、北向きで1日中暗い、共同トイレと共同洗面所の隣の部屋しか残っていませんでした。部屋とトイレの境がベニア1枚という、今考えると、とんでもない状態の部屋でした。自室の壁の隙間からトイレの中が見えてしまうので、ガムテープで塞いで生活。トイレの水を流されると、大雨のような音。生まれて初めて勉強したストレスが重なり、8月くらいにはノイローセ゛気味になりました。トイレの音が全て聞こえる状態で、気が散って勉強どころではなくなりました。壁がベニア1枚では当然ですね。トイレ1つを10人が使うと、使用頻度がとても高くなると学習しました。(笑)2ヶ月くらいトイレの音に悩まされ、勉強できなくてあせりました。大家さんに頼んでも、何もしてくれず。実家に電話して親父と大工さんに来てもらい、トイレとの境の壁を防音壁にしてもらいました。

初めて、うちが工務店で良かったと思いましたね。音は劇的に聞こえなくなりました。初めて親父を見直した瞬間でした。今考えると、以前の造りがひどかったのですが、こんなに騒音が無くなり、快適になるのかと、びっくりしました。後で考えると、これが工務店を継いだ原因の1つかもしれません8月くらいから、本格的に勉強を始めて、めでたく?東洋大学経営学部入学。入学したら、授業はつまらなくて、1ヶ月に2日くらいしか学校に行きませんでした。
暇ですから、バイトしてお金を稼ごうと、いろいろとやりました。警備員、ウェイター、建築現場の資材運搬、あやしいテレフォンアポインターなどです。当時、広告代理店を舞台にしたドラマが流行り、将来は広告業界で働こうと思い、広告屋さんでアルバイトすることにしました。今思うと、その会社が建築専門の広告屋さんだったということも、バイトに選んだ理由でした。本郷にある建築専門の広告代理店。月~金までの5日間。9時から5時までのフルタイムのバイトです。仕事は原稿運び、倉庫整理、建築コンペのお手伝い・・etc。良い雰囲気の会社で気に入り、こちらが本業のようになってしまい、ますます大学に行かなくなりました。暇な時間があると、会社に沢山あった建築雑誌を眺めていました。建築専門誌は値段が高く、一般の書店には、ほとんど並びません。海外の雑誌も含めて、これほど建築雑誌が揃っているところは、日本中を探しても他にないでしょう。そうした雑誌が読めたことは、今考えると貴重な体験でした。眺めているうちに、よく雑誌に登場する魅力的な注文住宅を造っている会社がありました。建築家の設計した住宅を多く手掛けていて、自社設計物件のレベルも高かった。自分もこんな家を造ってみたいと思うようになりました。また、コンペ(設計競技)のお手伝いをするうちに、同じ年代の奴がこんなに熱中して物づくりをしようとしているのかと、刺激になりました。

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家業の工務店を継ごうと思っていましたが、理数系が苦手で、建築系大学に行くことを断念し、住宅業界に行くのをあきらめましたが、無意識のうちにそのことが、心にひっかかっていたのだと思います。偶然アルバイトで入った会社。そこでの体験が、自分の働く道を決めるきっかけになったのですから、不思議なものです。その魅力的な住宅を造っていた会社。何が魅力的に感じたかというと、丁寧な造りです。主に戸建の高級注文住宅を造っている会社ですから、材料も良かったのですが、建築写真からも、他社とは全く違う質の高さが分かりました。レベルが違う。広告代理店の社内でも、「高級住宅ならここ」という会社で、何度も耳にしていました。
当時は本格的な和の建築や建築家の設計した住宅を手掛けられる会社は、東京で3社程度。

その中の1社でした。その会社にどうしても入りたくなり、電話しました。返事は、「事務系なら入社試験を受けられるが、技術系の設計と現場管理は建築の専門教育を受けた人でなくては、入社試験を受ける資格がない。」とのこと。バイト先の部長さんにも、裏から手を廻してもらい、技術系社員として入社することを試みましたが、ダメでした。どうしても、その会社に入りたくて、専門学校に行くことにしました。

同級生が似合わないリクルートスーツを着て就職活動していた時も、フルタイムで広告屋さんのバイトを続けて、王子にある中央工学校という建築専門学校に入りました。課題がたくさん出たので、大学の時より勉強しました。

ただ、出席率が厳しい学校で、卒業課題の発表日とその会社の入社試験日と重なってしまい、入社試験を受けられませんでした。入社試験より、課題の発表を優先しないと卒業させないなんて、おかしな学校です。今、考えると、学生の中で私だけ年上で生意気だったので、担任教師に意地悪されたのかもしれません。

入社試験も受けられず、この2年間は何だったのかと、一瞬落ち込みました。

入社試験は終わっていましたが、ダメもとで、電話せずに会社に直接伺って、就職試験を受けさせてくださいと御願いしました。

その日は、帰らされましたが、欠員が出て、試験を受けられることになり、めでたく希望の会社に入社しました。

諦めないことは大切ですね。

サラリーマン時代(高級注文住宅を手がける工務店に入社する)

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念願の高級注文住宅会社に現場監督として入社。仕事の内容は、職人さんの協力を得ながら、設計図書(設計者の描いた図面)を元に家を造っていくこと。予算管理しながら、設計図書を元に施工図(職人さんが作業する為の図面)を描いて、職人さんに指示を出して、確認しながら、家が出来ていくまでを現場で管理する仕事です。現場は、新宿、目黒、恵比寿という東京のど真ん中。人が多い場所なので安全面にも神経を使いました。全ての仕事が常駐管理でした。常駐管理とは、字のごとく、常に現場に駐在し現場管理することです。普通の木造住宅だと、現場監督は現場常駐なんてする必要がありません。常駐管理でないと出来ないような難しい建築を造っていたのです。敷地が広い場合は、現場内にプレファブ小屋を建て、敷地が狭い場合は、近所にアパートを借りて仕事をしていました。常駐管理は、戸建住宅では非常に特殊なこと。予算のある高級住宅でしか行いません。

仕事は、考えていたものと、だいぶ違いましたね。かっこいい精度の高い注文住宅を造っていましたから、自分の仕事もそのイメージだっのですが、実際は全くその逆でした。実際の作業をするのは職人ですから、現場監督は作業をする必要は無いのですが、初めて配属された現場が、初日から汗と埃で、ドロドロの肉体労働ばかりやらなくてはいけないような所でした。

理想と現実が違うなんて、今考えると当たり前ですが、当時は人生経験もなかったのです。

就職したのが、1993年、バブルはとっくに弾けていましたが、現場ではまだ、バブルの余韻?が残っていました。バブルの時は、職人が足りなくて、拝み倒して現場に来てもらったそうです。

その余韻でしょうか?職人の中に横柄な人間が多くて参りました。「お前、こんなことも分かんないの?学校で何を習ってきたの?」「うちの犬でも分かるのに、バカだねぇ。」

こんな調子で、背中に刺青のある職人達に言われていました。学校で勉強したことは、殆ど役に立たなかったですね。特に新人はバカにされる。「何故、こんな奴にバカにされなくちゃいけないんだ?」といつもイライラしていました。

「この調子だと、同期入社の奴らに差を付けられてしまう。」とあせっていました。

ストレスと現場を動き廻ったことで、入社した夏、3ヶ月間で10キロ体重が減りました。(笑)入社して最初の現場は、忘れもしないその年の12月20日に終わりました。

何がなんだかわかりませんでしたが、ホッとしたのと、多少は自分も役に立って、この家を造ったのかと思うと、うれしかったですね。 その後、仕事にもだんだんと慣れてきて、現場作業だけでなく、職人の手配や施工図を描くことも多くなってきました。社員も能力が高く、我慢強い人が多かったと思います。現場管理者は周囲とコミュニケーションの取れるM気質でないと勤まりません。

その会社が、他社と一番違っていたのは、建築家の描く図面どうりに、オリジナルで部材を造り、空間と調和する家を造っていたことでした。デザイン面の美しさだけでなく、既製品の建材は廃盤になるという宿命があり、将来交換できる可能性が少ないこと、それに対してオリジナル部材は廃盤になる心配はなく、基本的に交換が効くので長くつかえることを学びました。

分かりやすく言うと、造り手にも住まい手にも、良いものを造り、メンテナンスしながら長く使うという思想がありました。最初の値段は高くても、長く使えたほうが特だということを、お金のある人達は分かっているのです。目利きのする人が多かった。

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有名建築家の設計した住宅を施工している会社に入り、また見学する機会も多かったことは、今考えると、本当に貴重な経験でした。個人の住宅は通常、見学さえできません。会社に対してありがたく思っています。しかし、仕事をするうちに、疑問に感じるようになったのがプロモーションと受注方法でした。

お客さんは、建築家(設計事務所)に依頼して、建築家が選んだ施工会社として、私たちは仕事に参加することが殆んどでした。契約はお客さんとの直接契約ですが、分かりやすく言うと、建築家の下請け的立場です。

どんな業種でも同じですが、仕事を取ってきた人や会社が一番力を持ち、自分をアピールできる立場になります。お客さんからの評価は、「建築家の設計する難しい住宅を工事できる施工力の高い会社」というもので、社員もそれに誇りを持ち、会社もその部分をアピールしていました。
しかし、お客さんが感じていた価値の核心部分は、「好きな建築家に設計してもらうこと」で、「施工力の高い工務店に依頼する。」というのは、依頼動機の中で、順位が低かったのです。私は、建築家からの依頼という他力本願だけでなく、特徴ある部分をつくり、お客さんに直接アピールして仕事を取る比率を上げないとダメだと感じていました。その「特徴ある部分」は流行り廃りのあるものでなく、住宅の本質をついたものである必要があります。建築家の設計する家も、本格派の工務店が建てる家も、分かりやすい共通点はオリジナル部材で家を造るということです。新建材に代表される既成部材で造られた家が一般的住宅とするなら、今では、オリジナル部材で家を造るというだけで、一般的でなく特殊になります。手仕事が多くなり、値段もそれなりに上がります。その価値を分かるエンドユーザーの数も少なくなるので、少人数の組織でないと出来ないということも、うすうす分かりはじめていました。私が入社したころは、特命で工事を請け負うことが多かったようですが、2~3年目になると、バブル崩壊の影響も出て、建築家が何社かに見積もりを依頼して、一番安い会社に注文するという相見積もりが多くなっていきました。施工力は高くても、相見積もりに参加しなければならないというのは、お客さんから見て、施工力というのはわかりにくく、価格の安さというのは分かりやすいということ。また、社会のニーズに対して社員数が多すぎたということも、相見積もりに参加せざるを得ない理由だったと思います。幸いにも私が担当した現場ではありませんでしたが、建築家が新しい意匠や材料にチャレンジしたお宅では、お引渡し後に不具合が出ることがありました。そのような場合、設計のミスなのか施工のミスなのか分からないことも多かったのです。私たちからすれば、建築家は仕事を依頼して頂けるお客さんですから、そのような場合、文句も言いづらかった。

逆説的に言うと、新しいことをするタイプの建築家(専業の建築設計事務所)はリスクテイクしない。というか出来ない業態です。住宅設計を主な業務とする建築家は、アトリエ的な小さな組織ですから資本力もありません。ですから、クレームが出た場合は、自らの時間とお金を使わずに、施工会社にトラブル処理を任せるしかない。施工会社にトラブル処理を任せられるので、新しい特徴ある意匠を造り続けることが出来るという一面があります。 しかし、新しい建築を作り続けるのは年を重ねると難しくなる。50才を過ぎると、同年代の施主から共感を受けられなくなり仕事が減るのも、新しいことをするタイプの建築家の特徴のようです。私は、住みやすさ、経年変化、施工性にも配慮した、安全で普遍的な設計をする建築家しか共感できません。

建築家の設計した住宅を施工できることに魅力を感じて入社したのに、それが表裏一体と分かった時は、複雑な気分でした。どちらにしても、他人(他社)をあてにせず、自分(自社)に魅力を付けて、お客さんに一番近いところで、設計施工で受注できないと、自分が良いと思う家は造れないと感じました。

戸建住宅を造りたくて、入社しましたが、2年半くらいの間、マンションやオフィスビルの担当になりました。戸建住宅はお客さんの顔が見える仕事ですが、マンションやオフィスビルは、住まい手の顔が見えず、同じものを量産するような感じで違和感を感じていました。また大きすぎて、自分のやりたいスケールの仕事ではありませんでした。

私は、もっと住まい手と近い位置で、戸建住宅がやりたかった。ちょうど、実家の父が胃潰瘍を繰り返して体調が悪かったこともあり、実家の工務店を継ぐことを決め会社を辞めました。

家業を継ぐ

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1998年.30歳の時に実家に戻り、家業を継ぎました。嫁とはアルバイト先の広告代理店で知り合い、就職してから付き合いが始まり、実家に戻り籍を入れました。実家に戻り、一番驚いたのは、仕事がなかったこと。
とにかく、顧客を廻って、「家業を継ぎました。」という挨拶をしようとしました。しかし、顧客名簿が無い。急いで、分かっているお宅だけ名簿を作り、社長である父と訪問しました。すると、ハウスメーカーで既に建替えていたり、他社で建替えを検討したりしていました。

仕事が欲しかったので、確実に建替えるお宅が多い区画整理地区に、チラシを作り飛び込み営業をしました。120件くらいのお宅を、3度ほど廻りましたが、相手にしてもらえませんでした。このままだと、仕事が本当に無くなる。今までは、サラリーマンでしたから、毎月確実に給料は振り込まれます。しかし、自営業はハンディなしの完全歩合制。仕事が無くなり、倒産してもそれは自分の責任。自営業者の倒産は、プライベートの破綻も意味します。

飛び込み営業をした時に感じたのは、初めて会う人に対して躊躇してしまうということ。訪問営業が慣れていないということもありますが、自分が納得できる会社の特徴を持っていなかったからだと思います。また、住宅は値段の高いものなので、名前の知られていない会社から、いきなり営業をされても、相手にしてもらえません。。

住宅には、飛び込み営業は合っていないと思いました。何とかお客さんのほうから訪ねて来てもらえないと、ダメだと実感しました。また、会社の特徴を出さないと、検討さえしてもらえないということが分かりました。

特徴とは言っても奇抜な流行り廃りのあるものでなく、住む人にとって有益で、何より、私自身が納得できる本物でなければなりません。

そこで、建材メーカー、全国のビルダー等から資料を取り寄せて、どういう家を造っていくかという検討を始めました。取り寄せた資料に「高断熱・高気密」という文字がありました。ちょうど実家に戻った1998年ころは、前年の京都議定書の影響もあり、日本の木造住宅の温熱環境を良いものにしようという転換期でした。

わかりやすくいうと、それまでの日本の住宅は、夏暑く、冬寒いというのが一般的でした。それを、断熱と気密を良くすることにより、夏涼しく、冬暖かい住宅を建てるというのが「高断熱・高気密」住宅です。断熱と気密が良くなれば、少ないエネルギーで過ごせるので、ランニングコストも従来よりも掛かりません。

私は、温熱環境の良い家を造っていくことを決め、数多くの資料を読んで、その中から3社ほどの工務店グループをピックアップして、実際に体感しに行きました。その中で北海道に本社がある工務店グループの造っている工法が、一番シンプルで温熱性能も良いと判断し、入会しました。採用してすぐに、近所で家を建てるという情報があり、訪問して仕事を頂くことが出来ました。この工法を採用して一番驚いたのは、私でした。とにかく冬暖かく、夏涼しかった。東京でのサラリーマン時代に造っていた家は鉄筋コンクリート造で、住宅価格も日本のトップレベルでしたが、とにかく冬寒くて、夏暑かった。エアコンもガンガンに掛けないと効かなかったのです。当時は、高級住宅も意匠優先で、温熱環境を良くしようという概念がありませんでした。日本中の住宅がそうでした。

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温熱環境のみで比べた場合は、サラリーマン時代に造っていた家よりも、今、自分が造っている家のほうが断然よくて、それも自信になりました。その工法を手に入れた私は、初めて会った方にも自信を持って話しができるようになり、順調にお客様をつくることが出来ました。加盟して3年目には、そのグループの栃木支部の中で一番施工棟数が多くなりました。その後、仕事は順調でしたが、違和感を感じ始めていたことがありました。温熱性能(高断熱・高気密)を特徴にしたグループに所属したので、現場見学会を行うと、性能オタクのような施主予備軍が多く訪れます。性能オタクの方は、木を見て森を見ずで、とにかく断熱と気密が良ければいい家だと勘違いしていました。それは私たち業者の責任でもあります。

最初は、私も得意になって、温熱性能について話をしていましたが、断熱性能と気密性能は住宅を構成する大切な要素の1つでしかありません。他にも大切なことは沢山あり、本物の自然素材を使うことや、機能、デザイン、廃盤の無いオリジナル部材を使うことなども住宅の質を高めるには重要なことでした。住宅を建てる上で大切なことは、諸条件を踏まえた上でバランスを図ることです。そのバランスの取り方が各社の個性だと思います。大切なのは、断熱と気密にのみ、重点を置くことではありません。断熱材以外にも、意匠デザインに絡むサッシュ、玄関ドア等もグループの指定部材を使わなければならなかった為、仕上材にまで予算を廻すことが出来ず、結果として新建材を使うことが多いというのが現実でした。

お客さんに、意匠面の提案が出来ないことがストレスになっていきました。このままでは、デザイン×機能×性能×素材のバランスの取れた、自分の理想とする住まいは造れないと感じるようになっていきました。
そのグループは全国組織でしたので、会合などで他県の経営者仲間と情報交換したり、実際に造っている家を見学させて頂く機会もありました。すると、所属する工務店の造っている家に見た目の差が殆ど無いことに気が付きました。使っている仕上げ材料が同じだと同じ印象の家に見えるのです。

グループの工務店も、仕上材にまで予算を廻すことが出来ず、結果として同じような家になっていたのです。これでは、グループ内で競合になると思いました。

事実、栃木県内で競合が起こるようになりました。同じような仕上げ材料を使い、性能も同じなら、価格競争になります。競合になるということ自体、その会社は根本的に間違ったことをしているということ。グループ内での競合があるということは、グループ自体の存在も危ないということを意味します。
私は悩みました。それまで私は工務店グループの魅力に頼って仕事をして来ましたが、その状態が自分の理想とは、だんだんと離れてきたからです。他社(他者)の魅力に頼って商売をすることは、一時的には成果は上がりますが、他力本願で自分に実力が付かないまま時間が過ぎるので、後になって必ず失敗するということも学びました。今後、それはもう絶対にやめようと思いました。考えた結果、私はグループを退会し、「自分の理想とする家」を造ろうと決意します。退会することに踏み切れた背景には、ホームページやブログで、自社の紹介を低価格で出来るようになったことがあります。ウェブ時代が来たことも幸運でした。

現在とこれから

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この時期から、会社のスタイル、仕事のやり方も大きく変わることになりました。今までは、一般の住宅会社と同じように、お客様の家へ訪問して営業活動をしていましたが、それを一切辞めました。また、無料でプランを作成することも辞めました。それまでは、時間を掛けてプランを作っても仕事にならないこともありました。宙に浮いた無料プランを作成したコストは、私に仕事を依頼してくださった方が支払うことになります。そのことに気が付いたので、無料でプラン作成することは一切辞めました。また、ヨシダクラフトと他社を比較している方の後追いはしないということも徹底しました。

工務店探しは、恋愛のようなもので、好み、相性が大切です。無駄な訪問営業や無料プランをしない時間をたっぷり使って、私に共感して頂けるお客様の住まいを造るというスタイルがやっと出来ました。目に見える部分で変わったことは、オリジナル部材で住宅を造るようになったこと。室内ドア、キッチン、洗面台、下駄箱は基本的に手作りするようになりました。その方が空間と調和し、長く使えるからです。就職して初めて勤めた会社の影響は大きいと言いますが、本当ですね。その会社でオリジナル部材を造って家造りした経験が無かったら、今のような会社のスタイルにはなっていないと思います。
一般的な家つ゛くりは、ほぼ出来ている建材メーカーの商品を買ってきて、現場で組み立てて終わりです。いわゆるアッセンブリーです。ハウスメーカーや一般の工務店はこの方法です。例えば、建具に不具合が出た場合は、建材メーカーに電話すれば、修理担当者が来ますから、手間が掛からない。メーカーの造った建材の不具合だから、気持ちも少しは楽です。新建材は自然素材ではないし、工場生産品ですから、品質が安定しているという利点もある。しかし、オリジナル部材化する場合。例えば、自社で建具を造る場合。住まい手と打ち合わせして図面を描き、木材を注文して大工の作業小屋に届け、大工がドア枠を削り現場で組立て設置し、その後、建具屋がドア枠の寸法を測り、作業場で建具を造り現場に持って来てセットし、塗装屋が塗装をかける。その後、再度建具屋が来て、ガラスを入れて、もう一度建具を調整して完了です。手づくりで、かつ何種類もの職人が関るので、とても手間が掛かる。1年くらいは、建具が反ったりすることもあるので、メンテナンスも必要になります。工程ごとに管理する必要もあり、施工管理にも手間が掛かります。多くの職人が携わるということは、傷が付く可能性も高くなる。自社で部材を造るということは、部材メーカーも兼ねるということですから、責任も大きくなります。リスクも大きいので一般的な住宅会社はやりたがらない。いや、好きじゃないと出来ないと思いますね。これが新建材が主流になった原因でもあります。腕のいい職人も減ったのです。しかし、オリジナル部材は利点も多い。完成部材ではないので、壊れたときにその部分だけ交換できる。だから長く使える。廃盤になることが多い新建材では、基本的に交換が出来ない。だから寿命が短い。交換する場合は、オリジナル部材で造っていれば、壊す必要が無かった部分も壊して作り直すことになります。私は、部材から造る家づくりが、本物だと思いますし、長持ちする住まいを造るなら、オリジナル部材化が、長寿命住宅を造る為の大切な要素の1つだと思います。デザインも、同じ考え、同じ思想で造られたオリジナル部材のほうが、仕上がった時に違和感がありません。サラリーマン時代のお金持ちのお客さんたちは、そのことが良くわかっていたのです。

会社のスタイルが変化していったのも、必然だったと思います。

住宅の本質を求め、自分の経験を生かして好きなことをやっていこうと決めたことで、結果としてそれが特徴となり、欲する人がコンタクトしてくれるようになりました。

この物語は始まったばかり、やっとスタートラインに就いたという印象です。
長い文章に最後までお付き合い頂きありがとうございました。
ホームページにこの文章を書くことで、考えを整理することができました。

今後ともよろしくお願いします。

■(有)ヨシダクラフト 代表取締役 吉田武志(よしだ たけし)

1967年 栃木県宇都宮市生まれ
萩の丘幼稚園、簗瀬小学校、
旭中学校、宇都宮北高校卒業1991年 東洋大学経営学部卒業
1993年 中央工学校建築設計課卒業
1993年~1997年
㈱佐藤秀  注文住宅の施工管理に従事
1998年~現在 有限会社 ヨシダクラフト

■資格・登録

一級建築士 登録番号 第286651号
一級建築士事務所 栃木県知事登録 Aイ第2951号
建設業許可 般-19 第002606号
栃木県震災建築物応急危険度判定士 平成12年受講終了
住宅断熱施工技術者 登録番号 9633706A
CASBEE戸建評価員 登録番号 戸-04500-16
住宅瑕疵担保責任保険事業者届出済 登録番号 10026026
住宅リフォーム瑕疵担保責任保険事業者届出済 登録番号 40000514-000
リフォネット登録
AIU工事総合保険加入

■所属

社団法人 栃木県建築士会
財団法人 住宅保証機構
財団法人 住宅リフォーム・紛争処理支援センター
自立循環型住宅研究会
NPO法人 新木造住宅技術研究協議会

■上記以外のプロフィール

おとめ座のO型
・趣味
スポーツジム
酒は弱いが居酒屋とバーの徘徊
犬の散歩
読書
・子供
娘二人